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第七世
了学上人

小金城主高城氏の息子であった了学上人は、檀林である地元・東漸寺の団譽紫雲の下で幼い頃に出家し、若い頃から英才を発揮し、40歳で東漸寺第7世住職となりました。関東の檀林の中でも名僧という名が高く、本多忠勝(上総大多喜城主)、土井利勝(下総佐倉城主)ら徳川家重臣の篤い帰依を受けました。

秀吉から関東への移封を命じられた徳川家康は、江戸へ入る前に本多氏の勧めで、了学上人を駿府に招いて受戒の師とし、以後浄土宗に帰依したとされています。

寺史によれば、寛永寺の天海が「何故に浄土宗の若い僧侶に天台の円頓戒を受けるのか。」と憤慨し、増上寺の観智国師源譽存応がなだめたと記されています。

徳川家康公の師となったこの了学上人の代に、東漸寺は関東十八檀林の1つに列せられ、徳川家の擁護を受け、境内に結頭、結衆、学頭、真教、辯超、学典、祐玄、専住の8つの学寮を整備し、300人を超える多数の学徒を収容し、宗乗・余乗についての研鑽と同時に、関東屈指の修行の道場となりました。

(この学寮は現在滅失していますが、寺伝の絵図によれば、その位置は現在の小金小学校の校地の一部にあったと推察されます。)

了学上人は、忠勝亡きあとも本多家との交流は深く、忠勝の次男・本多忠朝(大坂の陣で戦没)、その甥・本多忠刻(播磨姫路藩主)、その妻・千姫(徳川秀忠娘)も了学上人を師として帰依しました。千姫は「天樹院」と号し、江戸城内竹橋に屋敷を与えられ、弟にあたる三代将軍・徳川家光の大奥を取り締まりました。

秀忠の病の際には、了学上人が病気平癒を祈願するほど信頼され、秀忠から増上寺の大僧正となるよう依頼を受け、寛永9(1632)年1月17日、増上寺17世大僧正となり、秀忠が亡くなったときも大導師として葬儀を執り行いました。

了学上人はその後、寛永11(1634)年2月13日、86歳で寂しました。