開山愚底
上人
開山愚底上人は信州筑摩郡洗馬(現在の長野県塩尻市洗馬)の人で幼名は長寿丸と称します。
父は長瀬但馬守といい、五代の祖・ 長瀬判官の代にこの地の領主となって木曽義仲の幕下に属したといわれています。
判官は一寺を建立して祈願所とし、「至宝山西光寺」と称し真言密教の寺としましたが、義仲滅亡の後、兵火にかかりその後は復旧することもなく寺の跡地を空しく残すのみであったといわれています。
愚底上人は武家の出でありましたが、出塵の志深く、浄土の教えに帰入し、寺跡が荒廃していることを慨き、再興の念止み難く、遂に一念発起してこれを成就、もと喩伽の壇場(真言密教)であった旧寺を、浄土専修の道場として「佛法山一乗院東漸寺」と称することになりました。
これが現在、長野県塩尻市洗馬にある東漸寺です。
その後愚底上人は増上寺開山酉譽聖聡上人の法孫で、当時学徳を高く備えた増上寺3世音譽聖観上人について法脈を受け、さらに鎌倉光明寺6世常譽良吽上人に布薩戒を受けられました。
愚底上人は、その後郷里に帰って大いに布教教化の実を挙げられ、その教門に集まる老若男女が多くありましたが、寛正年間の初め(1460~1465)に下総国鷲野谷(現在の千葉県柏市鷲野谷)の地に往かれたといわれています。
当時信州からはもちろんのこと、江戸から遠く東に離れた未開の地である鷲野谷になぜ往かれたかということについては、確たる伝承がございませんが、この鷲野谷は幽遼蒼巒の境にあり、薬師如来の霊應の地と伝えられ、かねてより愚底上人は、信州洗馬の東漸寺再興の際にも、薬師堂を別に建て判官の念持仏であった薬師如来を安置されたという故実から考えると、薬師如来に対して格別の信仰をもっておられたようで、鷲野谷来往も、この薬師霊應の地ということに関係があったと思われます。
この鷲野谷で堂宇は廃損し、薬師如来を安置した一小堂を残すのみであった草庵を、村民と相謀って再興し、「東光山安楽院医王寺」と称しここに暫く止住されました。
その時、上人が持念の間、堂前の楓樹に薬師の霊像が来現し、毫光を放つという奇瑞があったと伝えられています。